繊細さを持ち合わせ、よく考える人には人間としての品がある

年上の方からメッセージを頂く事がある。ネガティブで自己評価が低く、劣等感を抱えている私が書く記事に対して、年上の方から貰うメッセージと言えば、自己満足でしかない上から目線のアドバイスが来るのではないかと想像するけれど、そうではない。

ありがたい事に、そういった余計なお節介アドバイスを貰った事は今のところ1度も無い。よく考えてみれば、そういう人がこのブログに辿り着く事はないだろう。

メッセージは「共感しました」というものが多い。私と同世代で、私と同じく未婚で一人暮らしで低収入という方もいるけれど、既婚の方も子持ちの方も、立派な資格や特技を持つ方もいて「なぜ私のような大して特徴も無い人間のブログなんて読んでくれているのだろう?」と、ありがたく思いつつ不思議にも思う。

けれど人の悩みは意外と種類が少なくて、自分とは違う世界に住んでいる人も、実は同じような事で悩んでおり、想像以上に仲間は多く存在しているのだろう。

さらに。私は現在36歳だけれど40代50代の方からもメッセージを頂く事があり、そして先日は60代の方からも頂いた。その内容はもちろん、私に対するアドバイスではない。「救われた」と言って頂いたのだ。

歳の離れた方からメッセージを頂くと、私は体が震える。いや、実際には震えていないかもしれないけれど、そんな気がするほど心が動く。鼻の奥から目の奥にかけて、熱くこみ上げるものを感じる。

その感情が何なのかハッキリとはしない。単純に「嬉しい」という思いがある事は間違いないが、それ以外にも複雑な感情が入り組んでいる。そして、その中には「驚き」も存在していると思う。

私は自分の自己評価の低さや劣等感を克服したいと常に思い「自分を好きになる具体的な方法とは?」「自分を受け入れるとはどういう事か?」「本当の楽天家は存在するのか?」など無駄に悶々と考えては、答えが出ずに一人で勝手に落ち込んだりしているのだけれど、そんな思いも年齢を重ねるごとに薄れていくのだろうと思い込んでいた。

自分という人間について悩むのは若い証拠だろうと。中高年になれば、もっと自己中心的な考え方になり、周囲の目を気にしなくなり羞恥心が薄れ、ガサツで、ある意味で堂々とした人間になるのだろうと思っていた。

服装だって髪型だって気にしなくなる。「何をしたって私はもうオバサンなのだから」と諦めて開き直る。要するに、歳を重ねれば様々な事が"どうでもよくなる"のだろうと。なので私も、その頃には今ほど自分の性格に興味なんて無くなっているだろうと思った。もう諦めているだろうと。

高齢になると怒りっぽくなる人がいるが、あれは老化現象の1つなのだそうだ。本意・不本意は別として、歳を重ねるうちに人格に変化が現れ、世間なんて気にならなくなり、劣等感なんてものも勝手に消えていくのだろうと、そう思っていた。

けれどこうして実際に、年上の方が私のブログを読みメッセージを送ってくれるのだから、歳を重ねても今と同じく、自分に対する思いは消えないという事が分かった。

私にメールをくれた年上の方々は間違いなく心が"繊細"だ。繊細と言うと聞こえはいいが本人は辛い。心身共に、どこもかしこも敏感で、不要な音、匂い、想い、考え、情報…それらがどんどん自分の体の中に入ってくるので気楽に暮らす事は難しい。

さらに、おそらく性格が内向的であるが故、自分についても気にせずにはいられないのだと思う。繊細さの持ち主は、年齢を重ねても若い頃とは何も変わらず、ガサツな中高年になる事が出来ないようだ。

私自身は繊細かどうか分からないし、自分で自分の事を繊細と言ってしまうのも変な気がするので敢えてそうは言わないけれど、多少人よりも心が神経質ではあるかもしれない。

だとしたら、私も年齢を重ねたところでガサツな中高年にはなれず、30年後も今と同じように生きづらさを感じているのかもしれない。劣等感や自己否定感は今よりも克服できていたとしても、根本的な心の神経質さは変わっていないのかもしれない。

けれど、それもいいかなと思う。だって私は、考える事をしない人間が嫌いだから。内容が何であれ、考えるという行為には"人間としての品"がある。自分に悩む繊細さを持ち合わせた人には上品さが垣間見える。

こうして書くと、まるで私が自分を肯定する為に言い聞かせているようにも思えるけれど。けれど私はやはり、生きづらさから開放されたいとは思っても、人としての品は失いたくないと思うのです。